抹茶飲んでからマラカス鳴らす

見た映画、読んだ本、見たアニメ。そんな話を中心に。。。

「GODZILLA 星を喰う者」は正しくゴジラ映画だった

 どうも、抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 身体の不調を乗り越えて2週間ぶりの映画鑑賞してきました。いよいよ3部作完結編となるアニゴジ。これまでも賛否両論でしたが、さあどうでるでしょうか。

live and die(アニメ盤)/アニメーション映画『GODZILLA 星を喰う者』主題歌

WATCHA4.0点

Filmarks3.8点

(以下ネタバレ有り)

 1.動きのない観念論・宗教学概論

 この映画の内容を端的に表現してしまえばこの見出しに尽きてしまうでしょう。

 前作で科学=ビルサルドの力・メカゴジラシティという唯一にして最大の希望が折れた人類は宗教・信仰に逃げ道を求める。その信仰は彼らを供御として別次元の神ギドラを降臨させる。それこそがメトフィエスもといエクシフの狙いであり…ってな感じ。

 前半、地球では隊員たちが信仰に溺れ、宇宙船では前作でのハルオの決断をめぐって対立を起きている模様が淡々と描かれる。今まで通りの会話劇中心のため、やはり怪獣プロレス、怪獣映画を見に来た人には物足りないだろう。打倒ゴジラに向けて心の折れた隊員たちや宇宙船の人々が一斉にエクシフの宗教に帰依していく様子は、宗教がなぜ必要なのかを我々に改めて提示すると共に、メトフィエスが真実を知りながらも奇跡と讃える現象を当然前作の時点で分かっている我々は宗教、というか盲信の恐ろしさを体感できる。宗教学の非常に基本的なところを見せてくれているといえるだろう。

 しかしいよいよ中盤に入ってギドラが降臨してからは、一瞬はワクワクする。メカゴジラと違い、まあだいぶ違う気もするがとにかくなんとなく実体らしきものはあるギドラが出てきたのだから。

 ところが話はここから大きく膠着して、ギドラはゆっくりとゴジラを噛み、無力化しつつ浮き上がらせるだけ。この間に、ハルオの精神世界でのハルオとギドラと同化したメトフィエスの戦いが挟み込まれていく。例えばギドラがその体躯を用いてゴジラを締め上げるとか、過去のゴジラ作品のように光線を吐くとか、そんなことは一切ない。「怪獣惑星」でゴジラの定義を破壊し、「決戦機動増殖都市」でメカゴジラや怪獣の定義を破壊してきた虚淵玄は「怪獣映画」を破壊しようとしたのかもしれません。ゴジラとギドラの戦いは、データ上でのものであり、杉田智和の声で読み上げられるものが殆どです。こうした「静」の怪獣の戦いは正直退屈でもありましたが、終わってみて考えてみると、アリだったかもしれません。…いややっぱり流石に動かなすぎだったな…

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2.エクシフの宗教観

 メトフィエス、もといエクシフは自らの高度な数学のおかげで終末を見通し、その結果、文明の崩壊・滅亡こそを祝福と捉え、その為に幾多の星に介入し、地球もまたその一つだったことが今作では明らかになります。人類が文明を発展させ、その代償に怪獣やゴジラが生まれ、それをギドラに供するまでが儀式なのです。

 現実世界ではこの祝福を救済と呼んだり、ハルマゲドンと呼んだりするとは思いますが、こうした宗教観は当然ある種の説得力を持っています。

 文明の栄枯盛衰は必然であり、ならばどう滅ぶのかを考えるべき、という滅びの美学にも通底するような考え方です。

 ビルサルドとエクシフがそれぞれ高度な文明人と宣教師として登場した以上、科学が暴走し、宗教にすがる、という展開自体もしっかりと準備されていたものだと思います。っていうか、多分みんなすっかり忘れてると思いますが、ちゃんとメカゴジラ使ってでもゴジラ倒そうとしてくれていた以上、ビルサルドの人たちの方が地球のことを考えてくれてはいましたね笑。相対評価は彼らの方が上になったかもしれません。

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 3.これは正しく「ゴジラ映画」だ。

 ここで、「怪獣映画」と「ゴジラ映画」を考えてみる。「怪獣映画」とは怪獣が出てきて戦う映画であり、「ゴジラ映画」とはゴジラが出てきて戦う映画だ。

 でもそれだけなのか。どうしても思い出すべき作品は1954年の本多猪四郎監督「ゴジラ」だろう。

 「星を喰う者」でも言及されるが、ゴジラは本来人間の核実験の結果生まれた怪獣であり、その存在自体には反核のメッセージが込められていたことは今さら言うまでもないだろう。

 そうしたことを思い出してみると、ゴジラ・アースもまた、人類の核実験によって生まれた怪獣であり、人類に終末をもたらす存在である。それどころか、人類の存在自体がゴジラを生み出すための前座だったかもしれない、とすら示唆されている。これまでのゴジラ解釈にあった人間本位な部分を分解し、更に大きな生物学的視点で捉えなおす試みすら行われている。

 何よりも考えたいのはラストである。1954年度版の「ゴジラ」において、芹沢博士の発明したオキシジェン・デストロイヤーでゴジラは倒されるものの、芹沢博士はその設計の秘密とともに自らも東京湾に沈んだ。これはオキシジェン・デストロイヤーが新たな兵器となることを恐れてのことであった。

 本作におけるラストは一見、残されたユウコとヴァルチャーのナノメタルで再び文明繁栄の夢を人類が抱かぬように特攻しただけに見えるかもしれない。だが、ゴジラへの特攻でハルオが遺した言葉に注目してほしい。彼は自分をゴジラを憎む最後の人間だ、と称して散っていったのだ。無論、前述の目的もあっただろうが、その実、ハルオは明確にゴジラを倒しているのだ。すなわち、劇中で憎む存在あっての怪獣、ゴジラであり、恐れる者がいなくてはその巨体に意味はないとされている。ゴジラを憎む人間がハルオで最後ならゴジラ・アースはゴジラではなく、ただの図体のでかいやつに成り下がっていて、ゴジラとしての死を迎えているといえる。

 こういった意味で、この映画は1954年版「ゴジラ」を明確に意識していると共に、「ゴジラ映画」から「怪獣映画」に見られるような怪獣プロレスの要素を完全に引き剥がして、観念的な決着をつけている正しく「ゴジラ映画」なのだ。

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 そりゃ、細かな疑問はあります。前回の怪獣を倒すには自分も怪獣にならなくてはならないのか?という問いはぶん投げてるし、書籍では実物が2頭登場しているモスラもなんか観念的な存在になってるし。

 それでも、シンゴジの後にやってきたアニゴジ3部作は、これから次のゴジラを作る人にも自由を与える再解釈・再定義を行いながら、きちんとゴジラをやっていた良い3部作だと思いました。

 …それでも予告編のハリウッド版ゴジラでのキングギドララドンモスラあたりの巨影に心が躍ったのは秘密です。どうせ技術と予算で勝てないですし、怪獣プロレスは向こうに任せましょう…