抹茶飲んでからマラカス鳴らす

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思ったより猫映画じゃなかった「猫は抱くもの」感想

 どうも抹茶マラカス (@tea_rwB)です。

 今回見に行ってきたのは、犬童一心監督の最新作「猫は抱くもの」。「グーグーだって猫である」とかの監督だから猫映画だっ!っと思って見に行った訳…ではなく私も藩士である水曜どうでしょうのディレクター藤村忠寿さん、通称藤やん、またの名をゲンゴロウ、またの名をヒゲが銀幕デビューするというのでその勇姿を見届けに行ってきたのです。まさかの一番手の台詞でビビりましたが、そこまで重要な役じゃありませんでしたね。ま、当たり前ですが。

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WATACHA3.0点

Filmarks3.2点

(以下ネタバレあり)

 1.不思議で多彩な演出手法

 この映画、詳しくは知らないのですがもしかして元は演劇作品なのでしょうか。

 予告編の動画からもよく見ればわかるのですが、かなり演劇のセットのような舞台で演技が行われ、主には主人公沙織の勤めるスーパー、その倉庫、猫の集合する河川敷?、ゴッホのアトリエだったりが演劇的セット。場面転換のセット移動の黒子も映しているので意図的だと思います。そのおかげか、あまりに不自然なサイズの野球ボールが小道具で出てきたり笑。

 ただ、単純に場転換をするだけでなくそのタイミングでバラエティ番組を挟んでみたり、アニメーションをしてみたり、ミュージカル調にしてみたり。なんか演劇を映画化したときに思いついた手法全部やってみよう!的な感じに見えました。これを挑戦的とか、前衛的と評価するのか、しっちゃかめっちゃかと言うべきなのか。うーん、悩ましいところです。この監督はいつもこうなのかしら。

2.手法はさておき、猫の擬人化問題

 この映画最大の問題は、いくつもの課題が同時進行しすぎるところです。アイドルを辞めてスーパー勤めをしている沙織の恋路、自分を猫ではなく人だと思い込んでいる良男。絵を黄色でしか描けないゴッホゴッホの愛猫キイロと良男の関係。沙織とゴッホの関係。沙織のアイドルへの想い。沙織とゴッホ関係はまだよいのですが、問題は良男です。吉沢亮さんが演じていて、猫演技はとても女子たちを刺激しそうなのですが、我々から見ると、猫として画面に映るときと、吉沢亮として画面に映るときの差がないわけです。時たま沙織といても猫カットになる。猫たちが集合する河川敷で会話する際も、他の猫たちも人間が演じているので自分を猫と意識しているかどうかや、誰といるかが猫として映るきっかけではないことが分かります。結局吉沢亮としての姿と猫としての姿が映るタイミングの差が分からないので、良男が自らが猫だと気づいて、猫として沙織と共に生きたいと決意した瞬間に人間から猫の姿になることで表されるであろう良男の決意の強さや、心持ちの変化が全くわからないわけです。物語的カタルシスが絶たれてしまっていて、致命的に感じました。

3.沙織の夢への向き合い方問題とリアリティライン

 もう一つの重大な疑問が沙織のこれからへの向き合い方の問題です。アイドルを辞めて、元アイドルと言われると逃げるような生活を送っていたにもかかわらず、一夜限りのアイドルとしてのテレビ出演は許諾してしまいます。え、ちょっと待て、地元で認知されやすくしてどうするんだと。そしてそこで自分は今歌手として輝いている!とフリップで出すなど、そこまで微塵も出していなかった歌への意欲を見せ始めます。お前芸能界への未練あったんかい!そこまでの見せ方がへたくそなのか、芸能界を去ったのに色眼鏡で見られることを嫌がってるのかと思いきやスポットライトをまだ浴びたかったのか、という衝撃。その癖何の行動もしていないという…。

 ここで呆れていたらその帰宅後、猫にいざなわれてゴッホのアトリエへ。ここでのあれこれはまあ理解できるとして、問題はこのあと沙織がスーパーの倉庫で目を覚ます事です。これでどこからが夢で、どこからが現実だったのか一気にわからなくなります。舞台っぽい演出の倉庫で目覚めたことから現実描写のバラエティ番組等が嘘だったのかと思いきや、最後にはその時に再会した元メンバーと歌う仕事を始めているラスト。

 雰囲気だけ描いて具体的な筋が無いように感じましたし、結局沙織が夢に向かって進みなおすためには、バラエティ番組に出て打ちのめされることとゴッホとの関係が全てで、良男の介入の余地はないわけです。

 そう、猫は抱くものであって決して人の人生を動かすものではないのです。寂しい結論!っていうか、この宣伝手法ならもう少し猫を沢尻エリカに抱かせましょうよ。ポスターの猫、殆ど人間としてしか出てこないよ…