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抹茶飲んでからマラカス鳴らす

見た映画、読んだ本、見たアニメ。そんな話を中心に。。。

意識の果ての桃源郷とは「ハーモニー」

映画感想 アニメ感想

こんにちは、抹茶マラカス (@tea_rwB) です。

本日扱う映画はフジテレビ系ノイタミナムービー第2弾。

伊藤計劃原作の映画化第2作2015年11月13日公開の映画「ハーモニー」です。

何を今更感は否めませんが、ブログを再開した以上、伊藤計劃と向き合うのは私のけじめみたいなもんですので、どうかご容赦を。

 

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WATCHA3.5点

Filmarks3.7点

 

 

1.映像化に拍手

 原作を読んでいる方なら、明らかにご存じだとは思いますが、このお話はそもそも圧倒的に映像化に向いていません。

 まず、とにかく場面転換が少ない。トァンの家、移動中、冗談レベルのニジェール、バグダットと最終局面のチェチェン。そして、その殆どが会話あるいはモノローグで成立している作品です。原作においても話を過去に飛ばしたりしながらうまく見せようとしていますが、映画もうまく場面展開の少なさが、やや気にはなるものの、乗り切ることに成功していると思います。また、それを成立させた霧慧トァン役の沢城みゆきさん、御冷ミァハ役の上田麗奈さんの演技は凄まじいものがあります。

 もう一つ。WacthMeや生命主義、オーグ(厳密にはオーグメンテッド・リアリティ)など、なんとなくそれが何か分かっても説明のされない、そして描写でもしづらい用語が山積しています。次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループやハーモニープログラムについては、さすがに説明がありましたが、原作未読の方が追いつけたのかやはり不安です。

 

2.結末の改変について

 原作小説の流れを追いながら、物語が結末に入ったところで大きな改編がなされます。ここが、非常に悔しかった。下手をすると原作自体の解釈にも関係するところだと思うのです。

 ミァハは、学生の時分は世界を憎み、それゆえに大人になること(=WatchMeが起動する)を拒否し、自らの体を自らの意思で傷つけ、生を断つことを決断しました。その後、チェチェンで再会したミァハは、逆に世界を愛するがあまり、これ以上人類が死ぬことを防ぐためにハーモニープロジェクトのスタートをさせるために行動していました。

 さぁ、ここで原作と映画が分岐します。

 〈映画〉

 トァンは、ミァハの理想の世界に同意しますが、その世界にミァハを連れて行くことはしません。その理由は彼女を撃つ際に「愛してる」と言ったことから、百合展開にも思えます。

 ただ、この場合の求愛宣言は文字通り受け取るものではないと思いました。学生時代からトァンはミァハに心酔していました。劇中で脳と意思について語られていますが、それを借りればトァンは脳の欲求をただ垂れ流す部分。ミァハは決断・意思統制をする脳核の部分。キアンは脳核気取りの周縁といえるでしょう。

 その脳核をトァンは失ったことへの恐怖と、自分だけ生き残ったという贖罪の意識だけで生きてきたことになります。しかし、再会したミァハは脳核であることを放棄しようとしている。トァンは過去のミァハを自分の偶像・盲信する相手としていた。だから、「(過去のあなたを)愛してる」という意味でとらえました。

 〈原作〉

 原作でのミァハ射殺は大きくニュアンスが異なります。トァンは、ミァハの考える世界が、意識・選択のなくなった永遠の世界を肯定し、受け入れながらも、死ななくてもよかったはずのキアンとヌァザ(トァンの父親)の復讐として、ミァハを撃ちます。これによってわかるのは、トァンとミァハの関係が偶像的崇拝から対等なモノに変貌を遂げていることです。それをさせたのは、ミァハに後天的に備わったに過ぎない人格・意識というモノを先天的に持っていたという事実でしょうか。

 

3.総括

 全体としてよく出来ていました。伊藤計劃原作の映画化としては及第点だと思います。ただ、やはり結末の改変の意図がわかりません。

 人間の進化の果てとして、最高な幸福な状態=ハーモニープログラムの起動がなされます。虐殺器官の果てに生まれた大災禍の反動で究極に死なないことを、健康であることを求めた世界は結局意識を排除することでなされました。ユートピアを求め続けた結果がある種のディストピアになってしまう。SFとしてはよくあることですが、その究極形を伊藤計劃は示したのかな、と思います。